車は十年前と変わりない一本道を辿っていった。それは長く長く曲がりくねった山奥へと続く道。それで
も、十年前とかなり違うのは、車の振動と砂埃の少なさだ。十年前には、トラックの荷台で口と鼻をバンダナでカバーしてひたすら揺れるでこぼこ道を走っていた。今はクーラー付きの四駆。道路も舗装されて無駄な揺れはない。
チェンマイ市街を通り抜けて山岳地帯を三時間ほど走り、ニンニク農家の村を通りすぎ、飛行機の着陸のように急斜面を滑り落ちて辿り着いたメートー村は、十年前には、電気も水道もなく、子どもたちの衣食住もギリギリの状態で、中学校もなかった。
教育を受ける機会がないということは、それ自体、背景に貧困問題を抱えているのだが、教育を受けられない子どもたちは非人間的な仕事しか就けず、故郷の村に帰ってくることも出来ない。教育格差は経済格差として伝播するのだ。
そこで、大人たちは子どもたちが地域で教育を受けられようにと真剣に考える。
地域の学校と言っても多くの子どもは山道を何時間もかけて辿り着く距離に住んでいるため、入学と同時に親と離れて暮らすことになる。だから、学校は子どもたちの衣食住も保障しなければならない。
十年前の入学式の日には、我が子をなんとか入学させたい一心で校庭でハンガーストライキをしている少数民族の親たちが座り込みをしていた。
学校側もできることなら入学させたいのだけれど受け入れるからには子どもたちの三食も保障しなければならないから、苦渋の選択を強いられるわけである。教員の多くは単身赴任で、そこで教科を教えるだけでなく、子どもたちの衛生教育から人生相談までを担っていた。
TPAK(地球市民ACTかながわ)の海外協力は、まずその教員たちの愚痴の聴き役からはじめて、次第に日本で調達した衣服や文具などをトランクにつめてメートー村に運び込み、帰りには空になったトランクにチェンマイのナイトバザーで仕入れた民芸品を詰めて日本に持ち帰り、それをボランティアの手で販
売し、その収益をスタディツアーとともに、再び小さな村の学校へ運び続けてきた。
それから十余年、現在のメートー村には小学校も中学校もある。生徒会で自主運営し生徒が授業の合間に交代で店番をする校内売店もある。今年は十人がチェンマイの大学に進学し、その子たちは将来教師になってこの村に戻ってきたいと願っている。美しく整備された校舎で、ライフスキルトレーニングを受け、パソコンに向かって生き生きと学ぶ子どもたちの姿に、TPAKの十年のプロジェクトの成果がはっきりと映し出されていた。
メートー村の校長さんは「これまでこの村を支援してくれたNGOはたくさんあるけれど、こんなに長い間、継続して関係を作り続けてきたのはTPAKだけです」と言う。
その関係は、お互いが学び合い分かち合い自立しあう“相互依存”という“共生関係”だ。お互いの成長を喜び合い、新たな変化を受け入れる“しなやかさ”がそこにあった。
学ぶこと、自立することが、独占でも孤立でもなく、人と人との関係として循環する環の中にある。それこそが、豊かさというものではないだろうか。今日の若者たちの労働状況や自立観を語る時に、日本社会の変遷をたどらずにはいられないのだが、1950年代までの日本は、このタイの山奥の村とさして変わらぬ状況であったのに、タイの村にはこの十年間で豊かさの循環が生まれた。
一方、循環するどころか閉塞し続ける日本は豊かさをいったいどこで取り違えたのか。日本から遠く離れたタイの山奥の小さな村で展開したプロジェクトに光を当てることで、次代の労働観と自立観が闇のスクリーンに浮かび上がってくるはず
だ。
チェンマイ市街に戻る帰路、TPAK事務局の近田さんが面白い話をしはじめた。
タイの有名女優が偶然にもメートー村の子どもたちと出会い、ドキュメンタリー映画を撮り、最近それが完成し、近々首都バンコクで公開されるのだと。そして、その映画を日本向けに編集して、自主上映の輪を広げて、メートー村から大学に進学した若者たちの寮を運営する基金を作りたいのだと。
そういや、いましがた会ってきたメートー村の校長さんも「現在のメートー村は自立的にやっていける力がついて、不自由なことはないけれど、ここを巣立ってチェンマイの大学へ進学した子どもたちへの支援が必要だ」と言っていたっけ。
それから間もなくして、TPAKは、映画の製作者とコンタクトを取り、最終版のオリジナルを受け取
り、日本上映に向けて動き始めた。
子ども、家族、教育、自立…新しい視界が開けてくるスピリチュアリティいっぱいのフィルムの日本版はまもなく完成予定だ。
そう、自主上映の輪を全国各地へと広めたい。 (2005.10.20)